ひとりごとを延々と書くブログ

話し相手代わりに書き綴っていきます

小説の断片

 まず世界があって、ここにその詳細を記述できる。
 世界は、直行する三方向に広がりを持つ空間であり、どの方向にも均一な長さをもつ。そして、世界の各々の状態は常に変化し続ける。この広がりを時間と呼ぶ。この四種の広がりによって世界のすべての場面を表現できる。ただし、時間に関しては向きを持ち、不可逆である。
 次に、人間がいる。人間は、生物の一種であり、生物は非生物の集合によって非生物に非ざる柔軟な仕組みを持つに至った高度な機械である。非生物には厳密な作用規則が定まっており、確率的に決定する作用を認めれば、その作用規則はとても簡潔にできていることがわかる。

「お疲れ様です」
「あ~お疲れ。今日長かったでしょ。普段はああじゃないんだからね」
 矢口さんは困った風に笑う。ほんとに心底疲れている顔だ。この人には有休を年百二十六日くらい取らせた方がいい。インサートカップホルダを傾けながら閉じた瞼のしわの端に小さなほくろを認めた。
「ですけど、例の企画ちょっと厳しすぎませんか」
 私は、先の会議を長引かせた原因について言及する。まだ新卒二年目とはいえ、大学で財務会計をよく勉強していたので、異動先の財務部の状況はとても見過ごせるものではなかった。
「なんともね。先方は、いい口実をつければどんな名目でも予算を引っ張ってこれると考えているらしい」
「しかし、創業記念祭のステージに呼んだアイドルの出演料を男女共同参画特別予算から出すのはなんだか腑に落ちません」
「部長に聞いてみたんだが、理事長の意向だそうだ。それでいいならいいんだろう」
 矢口さんは変だ。別に社内の他部署の担当者まで皆「先方」と呼ぶ。そしていつも、どこか空っぽな絶望を弄んでいる節がある。まあそれも無理はない。
 私は長針が真下からやや左に傾いたのを見て、荷物をまとめた。定時丁度に帰ると「きみには皆に貢献するという意思がないのか」と部長になじられる。こういう体質の会社だから、それを根本的に改めようなどと気張るのは無駄だ。それは新卒一年目の私が証明してくれた。異動という形でその勝負は私の負けであることがはっきりしたわけだが。
 私にも彼のような空っぽな絶望を抱えられる日が来るのだろうか。それはどんな感じだろうか。案外、温かくていい抱き心地なのかもしれない。
「それでは。早く帰れるといいですね」
「どうも。おつかれさまです」
 矢口さんは部長からいつも庶務を投げられていて大変そうだ。なんでも、今の財務部長は上でやらかした人の左遷先の椅子らしい。

 列車が来た。ホームドアと車両のドアの真ん中がどれだけずれるか、そこそこ精度で予想できるようになってきた。
 今日は何を食べようか。この時間だったらまだ値引きシールは貼られていないだろう。となると自炊するかいっそ外食してしまうかだ。今月の外食カウンターはまだ規定値まで五六回残している。この調子だと来月に繰り越せるお金が増えそうだ。
 ひとまずここは夕食はすこし後にして、このゆとりを存分に味わうことにする。心の調整も立派な経費だ。

「お待たせしました こちら商品になります」
 有名王手コーヒーショップの価格はどれもとても安いとは言えない。下手にメニューを選ぶと外食一食分に相当する。だが、コワーキングスペースであると考えればかなりよい値段設定だと納得できる。私はバッグから読みかけの本を取り出す。
 一つか二つほど章を読み進めたところで、ふと目を上げると透明なカップについた水滴がすべっていた。私はそれを眺めて、紙製のストローはもう使い物にならなくなっていることを確かめた。
 次に目を閉じると、私はかなり楽しかった。ここまでに読んだ内容を頭があるべき場所に配置して、いつでも積み木のごとく遊べるようにしてあるのがわかった。そうして、また、目を落として、数行追ったあと、周りを見渡した。様々な音が聞こえた。

 私は満足して、帰宅した。持って帰ったカップに刺した二本目のストローが駄目になるまで本を読んで、また満足したら、布団にもぐった。
 目を閉じて、意識が落ちるのを待つ間、改めて途方もないことを考えようと決意した。世界を考えた。その途方もなさに軽く絶望したとき、ほっとして眠りに落ちた。